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いろとりどりの歌 第11曲「をぐら山」
 第11曲は 第二十六番
 ≪をぐら山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびのみゆき待たなむ≫ 貞信公 (拾遺集・雑秋)

 まずは第10曲の続きのお話から。

 「日本の歴史・平安京」の著者 北山茂夫氏は、藤原時平を高く評価しています。
 時平の関心は強く国政に向けられており、諸策をたてて実施する点においてすこぶる果敢であった、と。
 さらには 政治領導にかけて 道真よりも時平のほうがはるかに優れていたとして、彼がおこなった改革についてかなり詳細に記述しています。

 彼が壮年期に死した後、摂関家を継いだのは彼の子息たちではなく、弟 忠平でした。
 忠平は醍醐・朱雀両天皇を支え (朱雀時代は摂政)、老いて病気がちになってもなお望まれて村上天皇を支えました。
 結局 70歳 死の年まで実に40年!

 どんな善政を敷いたのでしょう。

 しかし先述の本にはなぜか ほとんど記述がないのです。

 逆に、宇多・醍醐の豪奢と風流にただ追従するだけで、亡兄の遺志は国政の領域でほとんど活かされなかった、というようなマイナスの言葉がポツポツと何度か出てくる。
 褒めているのは、忠平は事なかれをたてまえとした寛厚の大臣で… などの「寛厚」という形容詞だけという有様。

 寛厚だけで 長期政権を維持することができるものなのか。
 東の平将門、西の藤原純友による騒乱や 京を襲う天災など、時代は決して “平安” ではなかったはず。
 ウィキペディアを覗いてみても、やはり大した政治的成果は示されていません。
 ただ人柄の良さや、相当慕われていた様子はさらに鮮明に。

 ふたつの騒乱に対しても これといった対策を打ち出すことができなかったものの、中央政府の力を労することなく 一応の決着が着いたとのこと。
 運がよかったということは間違いなさそうです。


 この歌の作者「貞信公」は死後 天皇からの贈り名。
 その栄誉に浴したのは 藤原忠平その人です。

 詞書は、亭子院大井川に御幸ありて 行幸もありぬべき所なりとおほせたまふに ことのよし奏せむと申して

 小倉山は嵯峨野にある山。大井川を隔てて嵐山に対しています。
 その一帯が今でも紅葉の名所であることは広く知られるところでしょう。

 亭子院(ていじのいん)、すなわち出家して法王となった宇多上皇が紅葉狩りにお出かけになったところ、紅葉があまりにも美しいので「行幸にちょうどいい所だな」とおっしゃった。
 つまり御子の醍醐天皇にも見せたいものだと。

 そこで お供していた忠平は「法王のお気持ちを帝に申し上げましょう」とお答えした上で、この歌を詠んだのです。

 = 小倉山の紅葉よ、もし心があるならば 今度の帝の行幸まで 散らずに待ってておくれ =

 今回は法王の御幸 (ごこう) ですが、今度は天皇の行幸 (ぎょうこう)。
 どちらも和語では「みゆき」なので、「今ひとたびのみゆき」と言ったわけです。

 その趣向が面白いということなのでしょうが、擬人化の歌となると、私としては どうしても評価の基準は高くなってしまいます。

 延喜七年(907) のことというのが有力な説。とすれば時平が左大臣として健在の頃で、忠平はまだ大納言であったということになります。

       

 忠平は道真左遷後に彼を気遣う手紙を出していたという説もあるようです。
 時平の死後 忠平が政権を握ったのは、彼は道真の霊に呪われないだろうと考えられたということもあったのかも。
 今では信じられないような迷信が堂々と跋扈していた時代ですから、重要な要素であったのではないでしょうか。

 病は気から。
 呪われる心配をせずに済んだことも、忠平が長生きできた原因のひとつであったことでしょう。
author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 17:56
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