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いろとりどりの歌 第27曲「つくばねの」

 第27曲は 第十三番
 ≪つくばねの峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる≫ 陽成院 (後撰集・恋)

 「つくばね」は常陸国 (茨城県) の筑波山。
 男体・女体のふたつの峰があり、その間を流れて桜川に注ぐ川が「みなの川 (男女川)」。
 「常陸風土記」によれば、筑波山では春と秋に歌垣(うたがき) がおこなわれていたとのこと。
 歌垣は “合コン”みたいなもの (大阪能勢には その名もズバリ 歌垣山という山があります)。
 そうした地名を使って 恋を表現したというわけです。

 = 筑波山から流れ落ちる男女川が淵を作っているように、私の恋心もつもりつもって深い淵となったのですよ =

 後撰集の詞書には −釣殿(つりどの) の皇女につかわしける
 釣殿の皇女とは光孝天皇の娘 綏子(すいし) 内親王。この歌が功を奏したのか、のちに陽成院の后となります。

 陽成(ようぜい) 天皇は 第57代天皇。名は貞明(さだあきら)。869-949年 (在位876-884)。
 9歳で天皇に就きますが、暴君であった と伝えられています。
 暴君の少年天皇がいたなんて話 聞いたことがない。
 恐る恐るそのエピソードを見てみると、何のことはない、ほとんどがわがままな子供のイタズラという感じ。
 しかし重大なのは、883年 宮中で天皇の乳母の子が殴殺されるという事件。
 犯人は不明とされましたが、宮中では陽成天皇が殺した と噂されました。
 事実上 宮中でおきた前代未聞の事件の責任を取らされて、陽成天皇は退位することとなるのです。

 その時の太政大臣が 藤原基経(もとつね) (836-891)。
 基経は中納言 藤原長良(ながら) の三男として生まれましたが、男子がいなかった太政大臣の叔父 藤原良房(よしふさ) に見込まれて その養子となりました。
 基経は厚遇を受け トントン拍子に出世、872年に良房が薨去(こうきょ) すると実権を握りました。
 876年 清和天皇に代わって陽成天皇が即位すると、その伯父である基経は摂政に。
 陽成天皇との関係がうまくいっていないところに 先述の大事件。
 基経は天皇を廃立、仁明天皇の第三皇子 時康親王を新帝としました。これが「君がため春の…」の光孝天皇です。
 887年 光孝天皇が重篤に陥ると 基経は第七皇子の源定省を推挙。宇多天皇となります。

 宇多天皇は先帝の例に倣い 国政を基経に委ねることとし、左大弁 橘広相(たちばなのひろみ) に起草させ、「万機はすべて太政大臣に関白し (関(あず)かり白(もう)す)、しかるのちに奏下すべし」との詔を発するのですが、これが関白の号の史上初登場となったのでした。

 面白いのはその後。
 基経は儀礼的にいったん辞意を乞いますが、天皇は重ねて広相に起草させ「宜しく阿衡(あこう) の任を以て、卿の任となすべし」との詔を発しました。
 阿衡とは中国の故事の引用なのですが、これを文章博士(もんじょうはかせ) 藤原佐世(すけよ) が「阿衡は位貴しも、職掌(しょくしょう) なし (位は高いが 仕事はない)」としたため、基経は怒って 政務を放棄してしまいました。
 宇多天皇の説得にも基経は納得せず、国務は半年も渋滞。
 結局 橘広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布することでようやく決着しました。

 世に言う阿衡事件。
 これにより藤原氏の権力が天皇よりも強いことを世に知らしめることになったのです。
 基経はなおも広相を流罪とすることを求めますが、菅原道真が送った手紙によって何とか納得、やっとこさ事件は収まりました。
 この事件、もちろん天皇の屈辱にほかなりません。宇多天皇は 基経の死後、道真を重用するようになるのです。
 なお 時平、忠平は 基経の子です。

 (以上のことはあちらこちらで疑義があるようです。まぁ千年以上も昔のこと、当然といえば
  当然ですね。)

 ***

 陽成天皇は歌の才能があったようですが、自身の歌として伝わるのは後撰集、百人一首で採られた この一首だけとのこと。
 なお、後撰集では最後の部分が「なりける」となっています。

 「わびぬれば」の元良親王は 陽成院の皇子です。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 13:34
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