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いろとりどりの歌 第43曲「瀬を早み」

 第43曲は 第七十七番
 ≪瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ≫ 崇徳院 (詞花・恋)

 先日 山友達のお松さんからメール。大河ドラマ「平清盛」で、この歌が出てきたとのこと。
 しかし崇徳院ではなく 西行が詠んでいたので、お松さんの四女ちゃんはアレ!?と思ったということでした。
 西行の歌ではないことに気付くなんて やるぅ!というところですが、おそらく西行が代読したという設定だったのでしょう。

 崇徳院は 鳥羽天皇の第一皇子。母は 「長からむ」 で話の出た待賢門院璋子。
 1123年 5歳で即位しましたが、1141年 鳥羽法皇の意向によって 心ならずも皇太弟 近衛天皇に譲位。新帝は法皇の寵妃 美福門院得子の産んだ子でした。
 鳥羽法皇の崩御後、後の天皇にどちらの皇子を立てるかなどで後白河天皇と対立。保元の乱 (1156年) を起こしますが 敗北、讃岐に流され 46歳 悲憤のうちに没しました。

 崇徳院は藤原顕輔に「詞花集」を編纂させ、また百首を再度にわたって詠進させるなど 和歌に熱心でした。
 この歌は二度目の百首となる「久安六年御百首」の折のものですが、そこでは この歌の初句は「ゆきなやみ」になっているとのことです。
 「詞花集」での「瀬を早み」は のちの改作なのでしょう。

 川の流れの様子を恋にたとえた歌で、「瀬を早み」は「川の流れが早いので」。「滝川」は「激しく流れる川」。
 = 川の流れが早くて 岩によってせき止められ、川水がふたつに分かれても後にまた出会うように、愛しいあの人と今は別れても いつかまた再会しようと思っている =

 激しい恋の炎を感じさせる歌ですね。
 同時に 敗北・配流の無念、都復帰への希望を暗示しているのではと勘ぐりたくなりますが、久安六年は1150年ですから 乱の6年前です。

 天皇 あるいは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来 400年ぶりの出来事でした。
 「保元物語」によると 崇徳院は 配流先からのささやかな願いも後白河院に拒絶され、激しく怒って夜叉のような姿となり、後に天狗になったとされていますが、実際は寂しさを吐露した形跡はあるものの、恨みに苦悶していたという確かな証拠はないようです。

 しかし崇徳院の死後の1176年、反崇徳院であった後白河院や藤原忠通に近い人々が相次いで死去し、翌年には延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀などが起こって 社会が不安定になると 崇徳院 (と彼と行動をともにした藤原頼長) の怨霊の噂が本格化します。
 そしてついに1184年 後白河院は、乱の責任は崇徳上皇と頼長とした宣命を棄却し、崇徳院鎮魂のため戦場となった春日河原に廟を建立するのです。
 菅原道真を思い起こさずにはいられませんが、それから250年以上経った時のことということになりますね。
 この歌も そうした悲憤と怨霊の天皇というイメージと重なるところがあることから、後世にまで親しまれたという面があるのではないでしょうか。

 ところで崇徳院は その歌壇で、若き藤原俊成を高く評価していたようです。
 配所から死に臨んで作られた長歌が俊成に贈られ、俊成もそれに応える長歌を詠んだとのこと。
 俊成の子 定家が 崇徳院の歌を百首に選ぶのは当然ということになるでしょうか。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 00:18
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