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♪Questo♪Momento♪ 第45番「精巧に作られたドタバタの興奮」
 ロッシーニの代表作、3つの有名なオペラ ブッファのヒロインは皆 アルト (メッツォ) なんですね。
 「セビーリャの理髪師」のロジーナ、「アルジェのイタリア娘」のイザベッラ、「チェネレントラ (シンデレラ)」のチェネレントラ (アンジェリーナ)。

 シンデレラにまでソプラノではなくアルトを使うというのは奇異な感じもしますが、これはやはり プリマドンナ、コロラトゥーラ・アルトのエルサ・リゲティ・ジョルジ (ハンガリーの現代作曲家にそっくりの名前ですね) の存在が大きかったのでしょう。

 ロッシーニ研究家アルベルト・ゼッタは、プリマドンナがアルトであったことはロッシーニの時代には カストラートとの対比としてごく普通のこと と指摘してますが、これはよく判らないんですよね。当時はカストラートを使ったオペラはもう一般的ではなかったのではないのでしょうか?

 しかしロッシーニがアルトのあたたかい色合いを好んでいただろう という指摘には共感します。
 そしてロジーナについて「アルトの声が、機智と誇りと真心をもって自分の幸福のために戦うひとりの女性たらしめることに力を貸しているのである」という見解には、諸手を挙げて快哉を叫びたいところであります。

 その言葉はイザベッラ、チェネレントラにも当てはまるでしょう。
 3人とも いわば囚われの身ですが、そうした状況からの解放、自分の生の幸福のために努力する。

 私はある時、自己犠牲の物語、愛する男のために死を選ぶ乙女よりも そっちのほうがよっぽど尊いのではないかと思うように。
 穢れた男の魂が清純な女の死によって浄化されるなんて話になると、宗教観の違いによって もっと難しくなる。

 しかしロッシーニの3ヒロインは逞しい。自己愛があり 生きることに貪欲で、人間臭さがあります。
 低い声によって歌われるそういう姿は 男の理想ではないかもしれません。
 彼女たちは オペラというものが 男中心の社会の中で作り出されたものということに気付かせてくれます。
 愛する女のための男の自己犠牲の物語ってあるのでしょうか?

 チェネレントラはさすがに「清純度」が高いですが、それでもロッシーニはお伽噺の側面をできるだけ削ったうえ (魔法使い・魔法は出てこない)、チェネレントラに生身の感情を与えようとしています。
 最後 ひれ伏す父と姉に慈悲を垂れる勝利のアリアは痛快です。

 彼女たちは 笑いのために人間臭いわけではない。
 私にとってロッシーニは単に楽しいオペラを作った作曲家ではなく、生の喜び、逞しく生きることの価値を 笑いの中に表した偉大な作曲家なのです。 

 ***

 最も好きなのは やはり代表作の「セビーリャの理髪師」ということになってしまいます。
 なんと楽しいストーリーと気の利いた音楽!

 原作はフランスの劇作家ド ボーマルシェの書いた戯曲で、台本はステルビーニ。1816年初演。

 あらすじ = 両親をなくしたロジーナは 後見人バルトロの家に監禁状態。バルトロは娘ほどの年の差があるにもかかわらず、美貌と遺産を持ったロジーナとの結婚を狙っている。
 ふとしたことからロジーナを見初めたアルマヴィーヴァ伯爵。彼を貧しい学生リンドーロと思い込んでいるロジーナも同じ気持ちだった。
 伯爵は “町の何でも屋” で バルトロの散髪をしているフィガロに金を与え、警戒心の強いバルトロの家に入る手を考えさせる。
 伯爵は酔った士官や 音楽教師バジーリオの弟子に化けて バルトロの家に入ることには成功。しかしバルトロは それが伯爵自身の変装とは気付かないながら やはりガード固く、伯爵はなかなかロジーナと話ができない。
 強引な手段を仕掛けるしかないフィガロ。なんとかそれが実を結び、伯爵とロジーナは駆け落ちを約束をする。
 しかしロジーナは リンドーロが伯爵に自分を売ろうとしていると勘違い、駆け落ちの時になって 彼をなじり、駆け落ちを拒む。
 しかし自分自身が伯爵であることを明かして 誤解は解ける。
 ロジーナの遺産をもらえることで バルトロもなんとか納得、大団円。

 ごく簡単に書くと ロジーナの魅力は全然出ませんね…。

 そうそう、もうひとつ書いておきたいことは、伯爵もかっこいいヒーローではなく、とても人間臭いこと。
 フィガロの計画はどれもなかなか思い通りにはいかず、伯爵は肝心なところでは結局 金や権威、ピストルに物を言わせるのです。


 さて「特にここが好き!」は 第1幕フィナーレにいたしましょう。

 酔った士官に化けた伯爵がバルトロの家に入ってきて 泊ろうとするが、バルトロは宿泊免除証を持っていた。
 伯爵はそれを破り捨てて 暴れ出す。
 フィガロがやってきて抑えようとするが 時すでに遅し、騒ぎを聞きつけた兵士たちが上がりこんで来る。
 隊長は士官が悪いとして 彼をしょっ引こうとするが、自分が伯爵であることをそっと明かすと、兵士たちは突然直立不動に。
 一同は突然のことに 一転シンと静まる。バルトロも放心状態。
 バルトロが正気を取り戻すところから騒ぎは再発、ストレッタ。
 
  Mi par d'essere con la testa in un'orrida fucina
  まるですさまじい鍛冶屋の中に頭を突っ込んでいるようだ


 歌詞は混乱を表わすだけで たいしたことを言っていません。
 6人のユニゾンによるソット ヴォーチェは 息の長いクレッシェンドと短いデクレッシェンドの繰り返しによる音の波に。
 聞き手を歌詞を追うことから離れさせ、ワクワクするような興奮で飲み込みます。
 一見ばかばかしいようで 音楽的には極めて充実しているのです。

 「イタリア娘」の第1幕フィナーレ最後もよく似たストレッタで これも充実した 大変楽しい曲。
 そちらは din din, don don などと声で金属音を模すのに対し、「セビーリャ」は擬音を使っていないのですが、低声によって歌われる Altenand questo e quello が轟音を模しているように聞こえるのも面白いところです。
author:, category:♪この曲の♪ここが好き♪(百曲一所), 20:41
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