RSS | ATOM | SEARCH
いろとりどりの歌 第58曲「夕されば」

 第58曲は 百人一首第七十一番
 ≪夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろやに秋風ぞ吹く≫ 大納言経信 (金葉集・秋)

 −師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて田家秋風といへる事をよめる

 「おとづれる」は 稲が音を立てるのと 風が訪れる の両方の意味。
 「門田」は 門の前の田。「芦のまろや」は 本来は田のほとりに建てた葦葺きの仮小屋ですが、門があるということで 詞書にもあるとおり 田家、田舎の家のことなのでしょう。

 = 夕方になると秋風が訪れ 門前の田の稲をざわざわと音をたてて 粗末な芦葺の家に吹いてくる =

 家の前の田んぼの稲のざわめきとともに、冷たい風が家の中に入ってくるわけですね。
 収穫後の厳しい冬を予感させます。

 「田家秋風」の題詠ですが 机上の作ではなく、源師賢(もろかた) の別荘がある梅津の山里で実景を見てのもの。
 梅津は嵐山から桂川を少し下ったところ。映画村で有名な太秦のすぐ南です。梅津のすぐ南には桂。経信はそこに別荘を持っており 桂大納言と呼ばれていました (私の奥さんの実家は桂です)。
 
 源経信(つねのぶ) は宇多源氏で 民部卿道方(みんぶのきょうみちかた) の子 (1016-97)。母は播磨守 源国盛の娘で 歌人。子の俊頼は 「うかりける」 の作者。
 後一条から堀川に至る六代の朝廷に仕え、正二位大納言兼大宰権帥となり、八十二歳で死去。
 難波喜造氏曰く、能因らの後冷泉朝の歌風を継承発展させ、この歌のような清新な客観叙景の歌を詠んだとのこと。
 漢詩にも優れ、有職故実に詳しく、琵琶の名手でもあったと伝えられています。
 後拾遺集初出、勅撰入集八十六首。

 前々回にも書きましたが、白河天皇は 父 後三条天皇の遺志をついで 摂関体制の排除と天皇親政の回復を目指し、延喜天暦の古例にのっとって 礼・楽・和歌の興隆に努めました。
 1076年(承保三年) 十月、久しく絶えていた大井川行幸を復活させ、986年(寛和二年) 行幸を真似て 漢詩・歌・管弦の三船を浮かべたのもその一環 (「高砂の」 で触れました)。
 まず嵯峨野で狩りと管弦演奏があり、その後 梅津に赴いて行宮(あんぐう) (天皇の行幸の際の仮宮) を設け、そこから公卿侍臣は三隻の船に分乗しました。

 さて どれにも自信があった経信はどうしたか。
 
 わざと遅れてやってきて、まだ残っていた管弦の船に乗り、その船から漢詩も和歌も披露し その才能を誇ったとのことです。

 そう 寛和の行幸の 大納言公任 の逸話ですね。
 当時からそのエピソードは有名だったよう。経信も「ニュー三舟の才」のエピソードを後世に伝えたかったのでしょう。

 いや もっと切羽詰った事情によるものだったかも知れません。
 というのも経信は 白河院政後 院の乳母子の受領 顕季 (左京大夫顕輔 の父) の勢力におされて冷遇されていました。
 前年に奉勅された後拾遺集編纂の仕事に若い藤原通俊が起用されたことは、どんなにショックであったことでしょう。
 オレのほうがスゴイのに という “必死のパッチ” のアピールだったのかも知れません。

 ***

 ところで 公任のあの逸話はほとんど創作のようですね (「大鏡」に端を発する?)。
 実際の寛和の行幸は 道長主催ではなく、円融法皇主催とのこと。三船を浮かべたのは事実ですが、藤原公任 (と源相方) は三つの舟すべてに乗り、詩・歌・管絃に才能を示したそうです。
 また その時に詠んだとされる「小倉山嵐の風の…」は 詞書によると 法輪寺参詣のおりに とあり、舟遊びの時の歌ではないらしいとのことです。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 00:40
comments(0), -
スポンサーサイト
author:スポンサードリンク, category:-, 00:40
-, -
Comment