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いろとりどりの歌 第69曲「忍ぶれど」

 第69曲は 百人一首第四十番
 ≪忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで≫ 平兼盛 (拾遺・恋)

 平兼盛(たひらのかねもり) は平安時代中期の役人・歌人 (?〜990)。筑前守 篤行の子。光孝天皇の玄孫にあたる。初め 兼盛王と称したが、950年 平姓を名乗り、地方の国守を歴任した。
 「後撰」時代の主要歌人で、さまざまな歌合、歌会、屏風歌で活躍。
 勅撰集 計九十首入集。家集「兼盛集」。

 =人に知られまいと隠していたが 私の恋は顔色に出てしまったようだ。思い悩んでいるのか? と人から尋ねられるほどに =

 歌の中に会話文を持ち込んでいるのが面白いところです。

 天徳四年 (960年) 内裏歌合の「忍ぶ恋」の題に出詠した歌。
 前回紹介した壬生忠岑の子 忠見の歌と合わされ、ともに秀歌で 判者がなかなか優劣を決することができなかったその時の様子は後代までの語り草となりました。百人一首でも二首ともに選ばれているのです。
 今回 後代の範と仰がれ、詳細な記録が伝えられている「天徳四年内裏歌合」の晴儀の模様をご紹介いたします。

 前年秋に催された殿上人の闘詩の会のうわさを聞いた女房たちが、「殿方が漢詩なら 私たちは歌で」と帝に願い出たのがきっかけ。
 準備が始まったのは二月末 (旧暦)。
 村上天皇じきじき、方人(かたうど) (応援する役) として参加する女房たち、殿上の侍従、歌人の左右分けが決められた。
 三月三日には歌の題が決まる。
 霞、鶯(2)、柳、桜(3)、山吹、藤、暮春、首夏、郭公(ほととぎす) (2)、卯花、夏草、恋(5)。

 女房たちはそれぞれ 州浜 (歌を書いた色紙を置くための飾り台。入り江などをかたどっている)の用意に趣向を凝らし、華やいだ気分はだんだん盛り上がっていった。

 さて当日。春の名残の三月三十日。
 早朝から雑色 (下男) たちの手で会場が設営された。
 清涼殿西びさしの御簾はすべて新しく、中央の一間だけ御簾が上げられている。ここが天皇の御席。
 そこから南は左方、北は右方の女房の席。御簾の内で姿は見えずとも、華やいだ雰囲気。
 天皇の御席の正面にあたる渡殿(わたどの) (渡り廊下) 、蔀(しとみ) (格子戸) をすべて取り払い、そこに上達部の席が設けられている。
 庭を挟んで向こう側、清涼殿の東すのこが殿上侍従の席。ここも渡殿の南は左方、北は右方の方人が居並ぶ。庭には畳が置かれ、楽人の席。

 午後四時半、天皇が御臨席。
 右方の童女が州浜を出してきた。揃いの青色柳がさねの装束を着ている。
 しかし左方の州浜が出てこない。何度も催促を受けたあげく、赤色桜がさねの揃いの童女たちが州浜をかつぎ出してきた時には日も暮れかかっていた。
 左右の小庭に燈が入り、かがり火が燃える。

 いよいよ開始。
 一番は霞。左の講師(こうじ) (歌を読み上げる係) 右兵衛督 延光が 州浜から黄金作りの山吹の枝を一枝抜き取り、その葉に記された歌をよみ上げる。朝忠卿の歌。
 <倉橋の山のかひより春霞としをつみてやたちわらるらむ>
 今度は右方講師 右中将 博雅が兼盛の歌をよむ。
 <ふるさとは春めきにけりみよしのの御垣の原をかすみこめたり>

 判者の左大臣 実頼はかなりためらったのち、左の勝ちを宣した。…
 どうです? 清涼殿の造りが明確ではないとしても 華やかな雰囲気が想像されるでしょう?
 なんとも雅な勝負です。

 ところで、第一戦から兼盛なの? とお気づきになられたでしょうか?
 そうなんです。この時の二十の対戦のうち、なんと十一戦に兼盛の歌が選ばれているのです。
 当時 ひとり横綱のような状態だったのでしょう。

 さて 兼盛の「忍ぶれど」と忠見の対戦は最後の二十番目。その様子は 次回 忠見の歌の時に紹介するといたしましょう。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 22:20
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