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いろとりどりの歌 第70曲「恋すてふ」

 第70曲は 百人一首第四十一番
 ≪恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか≫ 壬生忠見(拾遺・恋)

 = 私が恋をしているという噂は早くも広まってしまった。誰にも知られないように思い始めたばかりなのに =

 天徳四年 (960年) 内裏歌合の「忍ぶ恋」の題のために出詠し、最後の第二十番、前回取り上げた 平兼盛の「忍ぶれど」との対戦となった歌です。

 前回ご紹介したように、天徳四年内裏歌合は詳細な記録が残され、また後代の範と仰がれていたわけですが、とりわけこの最後の対戦は名勝負として語り継がれています。

 と申しますのも 判者の左大臣 実頼は「ともに秀歌で 優劣をつけることができません」と奏上したのです。
 しかし村上天皇は引き分けを許さず「やはり勝負だけは決めよ」とおっしゃった。
 かたわらの大納言 源高明に判定を譲ろうとしても、高明はただうつむくばかり。
 困り果てて 天皇のご意向を伺ってもお返事はない。
 緊迫した沈黙の時が流れるうちに、実頼の耳に天皇が「忍ぶれど」の歌を口ずさんでおられるのが聞こえてきた。
 それを頼りに実頼は 右方 兼盛の勝ちを宣したのです。

 これで歌合は終了。
 その後 音楽、酒宴。
 天皇が退席され、すべてが終わった時には すでに東の空が白んでいました。

 なお 実頼は「右を勝ちとしたが、それでよかったのかどうかわからない。左の歌は非常によい」と書き残しているとのこと。
 歌合の時ばかりではなく、後に落ち着いた環境となっても 優劣はつけられないと考えていたようですね。
 いや 深読みすると、冷静になってみると左にすればよかったと思っている、という意味にもとれるでしょうか。

 私個人的には この二首自体よりも、千年前におこなわれた歌合の様子が詳細に残されたことのほうが価値があると感じています。

 壬生忠見(みぶのただみ) は前々回紹介した 「有明の」 の忠岑 の子 (生没年不詳)。
 天暦元年(947)頃 村上天皇に召され、卑官であったものの 歌壇で活躍をみせます。
 この歌の負けが原因で病を得て死んだとの話が伝わっていますが、現在では事実ではないと考えられているようです。
 後撰集初出、勅撰入集三十七首。家集「忠見集」あり。

 余談ながら、私はこの二首のことを考えると ふと 就職してからの4年間住んでいた尼崎市園田のマンションへの夜の帰り道を思い出すんです。
 その頃 覚えていたということでしょう。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 18:57
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