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いろとりどりの歌 第80曲「わが袖は」

 今回は第九十二番を。
 ≪わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし≫ 二条院讃岐 (千載・恋二)

 詞書は、寄石恋 (石に寄せる恋) といへる心をよめる

 「潮干に見えぬ沖の石の」は「人こそ知らね」をいい起こす序詞。
 「沖の石」は海の沖合いにある石。しかし「潮干に見えぬ」だから 干潮時にも姿を現さない。

 = 潮が引いた時でさえ見えない沖の石のように 人は誰も知らないけれど、私の袖はあの人のことを思っていつも涙に濡れて、乾く間もないほどなのです =

 「恋の涙に濡れる袖」を海の情景と重ねる点で、前回の「見せばやな」に似たところがありますね。

 三省堂いっときましょう〜。
 −わたしの袖は、潮が引いても姿の見えない沖の石で、どなたもご存じないだけ、ほんとうは、涙で乾くひまもないのです。

 あれれ? いつもとは違って えらくあっさり。肩透かし。解説者が違うのでしょうか?

 それにしても「袖が沖の石」という訳は どうもしっくりこない。
 私のように、袖が乾く間もないほどの恋心が沖の石というふうに訳すほうがいいのではないでしょうか。
 …などと考えていると、三省堂に驚くべき事実が!

 家集「二条院讃岐集」には「我がは潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間」とあると書かれているのです。
 千載集に採録する時、選者の藤原俊成 (定家の父) が手を加えたのだろうと考えられていると。
 なぜそんな重要な事実が、私が昔から愛読してきた難波喜造氏の本 (じいちゃんの遺品) に書かれていないのでしょう???
 沖の石が 父 頼政の領地があった若狭の海の大石であるとか、同じく頼政の詠んだ海の石の歌三首の影響があるという、推測の域を出ないようなふたつの説を紹介していながら…。

 この変更について 三省堂は「袖」のほうが視覚的に訴えかける力が強く、より具象的で鮮やか。下の句に関しても 係り結びを重ねた原歌よりもすっきりしていい と、俊成 “編曲版” を全面的に支持しています。

 「袖」のほうが「かわくまもなし」との結びつきが強くなり、納まりがいいということもある。

 しかし原歌では、「わが恋は」と 続く「潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね」との結びつきで、視覚的ではないながら、秘められた恋と 深い海の底の 人には見えざる岩の類似性を “鮮やかに” イメージさせる効果があったのではないでしょうか。
 その譬えの面白さこそがこの歌の妙味であるのに、編曲版では その妙味が薄められてしまっているという気がします。

 なかなかうまく言いあらわせないのがもどかしいところですが…、ともかく 私としては原歌のほうに軍配が上がると思います。

 二条院讃岐 (にじょういんのさぬき) は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人 (1141頃?-1217以後)。源頼政の娘。母は源忠清女。
 二条天皇に仕えていたが、1165年の天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼と結婚。1180年 父 頼政と兄 仲綱が宇治川の合戦で平氏に敗れて自害。その後 後鳥羽天皇の中宮任子 (のちの宜秋門院) に再出仕。1196年 出家。
 若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍。
 家集「二条院讃岐集」。千載集初出で 勅撰入集 計七十三首。

 この歌は当時からよっぽど評判になったようで、讃岐は「沖の石の讃岐」と称されたとのことです。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 22:48
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