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いろとりどりの歌 第89曲「今はただ」

 今回は百人一首第六十三番
 ≪今はただおもひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな≫ 左京大夫道雅(後拾遺・恋)
 詞書は 伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に忍びて通ひけることをおほやけも聞こしめして守り女など付けさせ給ひて忍びにも通はずなりにければ詠み侍りける

 「斎宮」とはもともと斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう) という役所のあったところ。「斎王」は天皇に代わって伊勢神宮に仕える女性。天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれました。
 制度上の最初の斎王は、天武天皇の娘 大来皇女(おおくのこうじょ) (7世紀後半) で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代まで約六百六十年間続き、その間 六十人余りの斎王の名が残されています。
 また 平安時代には「斎王」のことを「斎宮」と呼ぶようになり、この詞書にある「斎宮」も斎王のことです。

 詞書にある斎宮とは 三条天皇 の皇女である当子内親王。当時 (この歌が詠まれることになる以前のことですが) 三条天皇は 眼病を患っていたうえに、執権者である藤原道長との関係悪化で、皇位の危機にありました。
 当時 内親王は斎宮にならないことが多かったのですが、危機的な状況の天皇に少しでも有利になるように、当子内親王は斎宮になることを決意したのです。当子 当時 13歳頃 (実年齢)。
 三条天皇も当子内親王を溺愛していましたので、離れ離れになってしまうことは断腸の思いであったのでしょう。群行 (別れの儀式) では天皇も斎宮も互いに振り返ってはならないという決まりなのですが、三条天皇は思わず振り返ってしまったのです。 

 伊勢からの縁起のいい託宣も空しく、自分の外孫 敦成(あつひら) 親王を一刻も早く皇位につけたい藤原道長の執拗な嫌がらせに屈し、三条天皇は退位 (1016年)。当子も伊勢の斎宮の任を解かれ、帰京します。

 そんな時 藤原通雅は当子のもとに忍んで通ったのです。退位したとはいえ、ついこの間まで 神に仕えていた皇女のもとに。
 すぐに噂は広まりました。三条院は激怒。皇后や親王らのとりなしも聞きいれずに道雅を勅勘 (出仕差し止め)、ふたりの手引きをしていた乳母も追放し、当子は母 娍子のもとに引き取られてしまいました。
 当子は厳重な警護の中に。裂かれてしまったふたりの仲。

 そして通雅はこの歌を歌うのです。
 = 今はもう諦めたということだけでも、人づてではなく直接言う方法があればいいのだが =

 三省堂に補足してもらいましょう。− ぎりぎりの瀬戸際にまで追いつめられた今は、あなたとの恋は断念してしまいます。ということば、せめて、この最後のことばだけを、他人を通してではなく直接あなたに告げたい。それができる方法があったらどんなにうれしいことか。−

 通雅 当時24歳頃、当子 15歳頃。(実年齢)

 遊戯としての恋歌とは違って、辛い思いがひしひしと伝わってきます。
 子供の時のかるた取りでは、「とばかりを」の部分の語呂が悪いことをちゃかして「とばっかりを」と読むのが定番の笑いであったのですが。

 翌年 (1017年) 三条院は出家するも、まもなく崩御 (41歳頃)。当子も同年出家。1022年薨去。(21歳頃)。

 藤原道雅 (ふじわらのみちまさ) は中関白 道隆の孫で、儀同三司 伊周の長男。 ※参考 儀同三司母
 いい血筋だったのですが、996年 内大臣であった父が、人違いであったものの、花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こして左遷され、実家の中関白家が没落する中で成長するのです。
 敦成親王に仕えるようになり、1016年 敦成親王が後一条天皇として即位されるにあたって蔵人頭に任じられ、従三位に叙せられたのですが、なぜか在任8日目で蔵人頭を更迭。
 そして この密通事件が起こるのです。

 通雅にはその後もよからぬ噂が付きまといます。
 1024年、花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝 死体が野犬に食われた姿で発見されるという、公家達を震撼させるほどの忌まわしき事件が起こりました。
 翌年 容疑者として法師隆範が捕らえられたのですが、隆範は道雅の命であったと自白するのです。
 この事件は結局迷宮入りとなるものの、道雅は左遷。その後1045年に 左京大夫に転じるも、1054年 出家、その直後に薨じました。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 00:05
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