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いろとりどりの歌 第91曲「世の中よ」

 なんと 2015年3月以来、2年8ヶ月ぶりとなる「いろとりどりの歌」投稿です。

 きっかけはひょんなこと。友人との電話です。ふと「いろとりどりの歌」の話が出ました。「半分以上書いたやろ。」「70くらい書いたんやないかな。」…

 電話を切った後 久しぶりにブログを確認してみますと、なんと90書いていて、あと10首を残すのみではありませんか! まったく覚えておらず、自分で驚いてしまいました。

 なんとか完成させたいなとメラメラ。

 しかし これまで投稿をしていたのは 前のショップブログ。ショップブログは、私が利用しているショッピングレジシステムを使っていれば、以前は無料で使用できたのですが、ある時 有料となり、現在使用しているJUGEMブログへの転居を余儀なくされました。

 ボタンひとつでブログまるごと移すことができたのはいいのですが、レイアウトは崩れるわ、リンクは使えないわ、解析機能は貧弱だわ…。完全にやる気を失ってしまったというわけです。

 今回 まずはリンクとレイアウトを修復し、本日 新しい歌に着手、百首完成へのスタートを切りました。

 

 第91曲は 百人一首第八十三番、

 《世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる》 皇太后宮大夫俊成 (千載・雑中)

 

 藤原俊成は 百人一首選者 定家の父。この親子の歌は 後鳥羽・順徳両天皇の御歌とともに最後に取っておいたものですが、再開の景気づけとして (?)、ここで投入することにいたしました☆

 

 「道こそなけれ」は「道なし」を強めた言い方。「思ひ入る」は「心に深く思う」の意味に「思って山奥に入る」をかけている。「鳴くなる」の「なる」は推定・伝聞の意味の「なり」の連体形。

 

 = ああ 世の中というものは逃れる道はないものだ。山奥に分け入ってきたが ここにも憂きことがあるようで鹿が鳴いている =

 

 できるだけ簡潔に、文章としてしぜんに訳すことを心がける私とは正反対、感情たっぷりで 懇切丁寧な意訳が面白い 三省堂の古語辞典を引用させていただきましょう。う〜ん これも久しぶり…。

 − ああ、この世間というものよ、人々とまじわって生きるつらさ、わずらわしさをのがれたいと願っても、そこには結局はのがれることのできる道がないのだよ。ここなら心静かに過ごすことができるだろうと思い、分け入った山の奥でも、妻なる鹿を求めているのだろう、あのように鹿の鳴く声が聞こえる。−

 

 「妻なる鹿を求めて」というのが面白いですね。「道がない」というのは「道もないような山奥」という意味にもかかっていると思うのですが、鹿独特の悲嘆の叫びのような鳴き声が、自分と同様 進むべき道を迷い 嘆き悲しんでいるようだと素直に解せばいいのではないか。だからこその推量「なる」なのではないかと思うのですが。

 

 詞書は 述懐の百首の歌よみ侍りける時 鹿の歌とてよめる

 家集「長秋詠藻 (ちょうしゅうえいそう)」には「堀川院の御時の百首の題を述懐によせて詠みける歌、保延六年 (1140) のこととかや」とあり、俊成27歳の時の歌ということになります。この年 崇徳天皇歌壇で親交のあった西行が出家し、鞍馬山などの京都北麓に隠棲したとのことですが、そうしたことも頭に浮かんでいたでしょうか。

 ちなみに ここでの「述懐」は 過去の出来事や思い出などを述べるという意味ではなく、失意や不満などの心情を述べるということのようです。


 藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人 (1114〜1204)。名は有職読み (ゆうそくよみ) で「しゅんぜい」とも。藤原道長の六男 藤原長家を祖とする藤原北家 御子左流 (みこひだりりゅう)、権中納言 藤原俊忠の子。10歳で父が亡くなって 勧修寺流 藤原顕頼の猶子 (養子) となり 顕広 (あきひろ) と名乗る。崇徳天皇の歌壇で活躍するも 1156年 保元の乱により歌壇が崩壊。その後の二条天皇の歌壇では六条藤家の藤原清輔が重用されるが、1167年 念願の公卿 (非参議) となり、その翌年 54歳で実家の御子左家に戻り 俊成と改名した。1176年 (63歳) 病を得て出家。釈阿 (しゃくあ) と名乗る。翌年 清輔が没し、後に九条家歌壇に師として迎えられる。1183年 後白河院の院宣を受け、5年後「千載和歌集」を撰進、名実ともに歌壇の第一人者となり、91歳の天寿をまっとうするまで活躍した。

 作風は 格調高く深みのある余情美を特徴とし、本歌取などの技法を確立した。歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は能楽・茶道などにも影響を与え、中世を代表する美的理念となった。指導者としても息子 定家をはじめとして、寂蓮藤原家隆、後鳥羽院、九条良経、式子内親王など 優秀な歌人を多数輩出し、新古今歌風形成に大きな役割を果たした。

 最終官位は正三位、皇太后宮大夫 (こうたいごうぐうのだいぶ)。皇太后宮大夫とは 皇太后の身の回りの仕事をする役所「皇太后宮職 (こうたいぐうしき)」の長官。屋敷が五条京極にあったので、通称「五条三位 (ごじょうのさんみ)」と呼ばれた。

author:zarathustra4, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 22:46
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