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いろとりどりの歌 第8曲「寂しさに」
 第8曲は 第七十番
 ≪寂しさに宿を立ち出でてながむればいづこも同じ秋の夕暮れ≫ 良暹法師 (後拾遺集・秋)

 特別な趣向や機知が凝らされているわけではなく、ごくシンプル。
 しかしそれだけに 感情が素直に湧き出て詠んだ という感じがしていい。

 秋の夕暮れのうら寂しさは 出家の身にも。
 思わず 庵を出る ( “宿” は旅館の意味ではなく 自分の住まい)。

 そこには秋色に染まったいつもの眺め。冷たくなってきた風。虫の声。

 自分の庵だけに寂しさがあるわけではない…。

 もうすぐ闇が訪れ、1日が終わる。また明日 秋の一日がある。そうして厳しい冬へと近づいていく。 
             

 夜でも明るく 冬でも暖かく、飢えよりも肥満が心配で、テレビがあり パソコンがあり、ステレオでいつでも一流演奏家によるベートーヴェンを楽しむことができるというような状況とはまったく違った秋の夕暮れ。

 この世は我がものだと詠った藤原道長も思いもよらないような安楽と贅沢を、苗字が同じとはいえ (道長の「藤原」は “氏” で 厳密にいえば 苗字ではありませんが) 単なる一庶民が享受できる現代。
 幸運と同時に違和感を感じたりもします。


 良暹(りょうぜん) は平安中期の僧・歌人。家系・経歴については不明。比叡山の僧で、その後 大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだということぐらいしか判っていないようです。

 この歌もどのような状況で詠われたものか判っていません。
 ただ 大原時代は こもって詠歌にふけっていたようですので、大原での体験なのかも。

 雲林院について調べてみますと、なんと京都市北区紫野ではありませんか。
 広大な大徳寺のすぐ南。私が大学時代 住んでいた “宿” からわずか1〜2キロほどの場所。
 現在はごく小さな寺ですが、かつては大寺院であったようですので、となるとやはり詠んだ場所は 雲林院より大原のほうが可能性は高いという気がします。


 ところで この歌、俳句的と言えるのではないでしょうか。
 そういうところに心惹かれると同時に、一方で17文字に収斂できるだろうとも。

 俳句なら寂しい気持ちを表さずに、鑑賞者の感性にゆだねる。
 そんなことを考えていると、この歌が惜しく感じられたりもしてしまいます。
 もちろん当時 俳句はなかったのですから、言いがかり以外の何物でもないのですが。

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 雲林院のすぐ西にある船岡山公園のそばには、イギリス人が経営している喫茶店がありました。
 ケーキのおいしさにびっくりしたことを思い出します。
author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 10:52
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