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いろとりどりの歌 第10曲「このたびは」
 第10曲は 百人一首第二十四番
 ≪このたびはぬさもとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに≫ 菅家 (古今集・羇旅)

 季節は秋ですが、古今集での分類は「羇旅」。
 旅における歌ですね。

 詞書は −朱雀院のならにおはしましたりける時にたむけ山にてよみける

 昌泰元年 (898) 10月、朱雀院 すなわち宇多上皇の吉野宮滝御幸の際、奈良春日手向山で詠まれたものと考えられています。

 ぬさ(幣) とは神に祈る時に捧げる紙切れや布切れ。
 当時の旅は、紙または布を細かく切ったものを袋に入れて持っていき、道祖神の前でまき散らして 旅の安全を祈っていました。

 = この度 (この旅) は幣を用意することができなかったので 錦の織物のような手向山のもみじ葉を幣の代わりとして手向けます あとは神の御心のままに =

 真摯な祈りがあるのかも知れませんが、千年後の鑑賞者にはちょっと滑稽な気がしないわけでもない。
 それよりも秋の冷たい空気、山の匂い、陽光に照り映える紅葉の鮮やかさが印象的な歌という感じがします。

 しかし子供の時には そんなこと知ったこっちゃない。
 「まにまに (随に)」を「まにまにまにまに〜」などと読むと、正月の百人一首を盛り上げることができるということで 重要な歌でした。

 作者「菅家」は かの菅原道真の尊称。

 弟が持っていた学研の「まんが伝記事典/日本の偉人」によって、子供の頃から菅原道真は知っていましたが、「まにまに」の作者とは結びついていませんでした。

 大変な秀才で 右大臣にまで登りつめたにもかかわらず、左大臣であった藤原時平の陰謀によって、大宰府に左遷されてしまったこと。
 京を去るときに <東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな> を詠んだこと。
 道真の死後 宮中にさまざまな災いが起こり、道真の祟りと恐れられたこと。
 学研マンガで知りました。

 --道真は醍醐天皇を廃して、娘を嫁がせた斎世(ときよ) 親王 (醍醐天皇の弟) の擁立を企てている--
 これが 時平が醍醐天皇へおこなった讒言(ざんげん)

 醍醐天皇は憤慨し、昌泰四年 (901)、道真を大宰府に左遷します。なんと4人の子供も流刑に。

 その2年後、道真は憤死。

 藤原貴族は万々歳!となりそうなところですが、そうはいきませんでした。
 宮中は長年 道真の怨霊に怯え、苦しめられることになるのです。

 道真の死の6年後、時平が39歳で病死。
 その後 醍醐天皇の皇子とその息子が続けて病死。

 さらに延長八年 (930)、清涼殿が落雷を受け、道真の息子たちを流刑にした大納言 藤原清貫をはじめ、多くの要人に死傷者が出るという事件が起こります。
 このショックで体調を崩した醍醐天皇は3ヶ月後 崩御。

 宮中、ひいては京の人々はこれらを道真の祟りと恐れました。
 そこで道真の罪を赦して贈位をおこない、道真の子供たちの流罪も解いて京に呼び戻します。

 さらに 道真は雷神に化身したと考えた宮中は、京都北野に北野天満宮を建立し その怨霊を鎮めようとするのですが、これこそ 道真=天神様として全国に天満宮が広まったことのきっかけです。

 現在では道真は学問の神様ですが、怨霊の恐怖の記憶が風化してしまった後、参拝者獲得のための路線変更なんでしょうね。

  
    道真生誕の地といわれる菅大臣神社北の鳥居前 手前の小さな石碑は「菅家邸址」とあります
    「東風吹かば」を詠んだのもこの地と伝えられています(下京区仏光寺通新町西入菅大臣町)


 一方 時平は。
 子供心にとっては、同じ苗字 (氏) である時平が悪役であることに、ちょっとした忸怩たる思いを感じていたのですが、どうやら時平の道真への妬みや恐れだけで左遷がおこなわれたという単純な話ではないようですね。
 道真の中央集権的な財政政策に、多くの貴族が不安を感じていたという背景があったらしい。

 一方「延喜の治」と呼ばれる醍醐天皇親政を実質的に主導したのは時平でした。
 有力貴族や寺社の力を抑制し、小農民を保護する律令制への回帰を目指した。
 なかなか思い通りにはいかなかったとはいえ、彼は単なる悪徳政治家ではなかったのです。


 それにしても驚いてしまうのは、道真左遷の901年当時 道真は56歳ですが、時平は30歳、醍醐天皇にいたっては16歳ですよ!

 すごい世の中です…。

 さてさて、時平死後の藤原氏は。

 次回へ続く?
author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 17:46
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