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メルマガ2010/1/10 56年前の維納新年祝賀演奏会
 ▼▼56年前の維納新年祝賀演奏会▼▼

 ニュー・イヤー・コンサートといえば、現在ではさまざまな国出身のスター指揮者が(今年はフランスのジョルジュ・プレートルですね)、毎年入れ替わり立ち代り指揮台に立ち、また聴衆も国際色豊かという、コスモポリタンなお祭り演奏会。

 しかも生中継で世界各地に放映され、そのCDとDVDがひと月も経たないうちに発売されるなんていうコンサート、おそらくポップスにだってないでしょう。
 ホント、スゴイ!

 しかし歴史を紐解いてみますと、その開始には意外な理由がありました。

 ナチス・ドイツに併合されるという、オーストリア苦難の時代。
 その翌年の1939年の大晦日に、ニュー・イヤー・コンサートの原型は始まりました。

 そのココロは−

 表向きは明るく楽しい演奏会でありながら、オーストリア第2の国歌として愛される「美しく青きドナウ」や、オーストリア軍に珍しく勝利らしい勝利をもたらしたラデツキー将軍の賛歌で、オーストリア人のアイデンティティを鼓舞するという意味合いがあったのです。

 戦争中もこの演奏会は続けられ、ナチス・ドイツ崩壊の翌年の1946年、大晦日から元日に移され、晴れて「ノイヤールスコンツェルト(ニュー・イヤー・コンサート)」となりました。

 しかしオーストリアはドイツから開放されたのもつかの間、今度は連合国の占領下となってしまいましたので、愛国演奏会としての性格は続いていたことでしょう。

 開始以来ずっと指揮者を務めてきたクラウスは(1946,47年のみヨーゼフ・クリップス)、死の数ヶ月前の1954年まで指揮(まさにこの録音!)。
 その翌年の1955年からは、ヴィーン・フィルのコンマスだったヴィリ・ボスコフスキーが指揮を担当することに。
 折りしもこの年、オーストリアは念願の独立を獲得。「ニュー・イヤー・コンサート」はその性質を、政治的なものから娯楽的なものへと変えていくこととなります。

 ボスコフスキーは1979年までのちょうど四半世紀、指揮を担当。その後、ロリン・マゼールが1986年までの7年間指揮。1987年のカラヤンからは、年ごとの交代制となって現在に至っています。

 さて、ニュー・イヤーのレコードのための商業用ライヴ録音は、意外にも1975年のボスコフスキーによるデッカ盤が初めてでした(ボスコフスキー・ニューイヤー登場20周年として)。
 そしてボスコフスキーのニューイヤー25年と勇退を記念した1979年がふたつ目の録音。
 マゼールの時代にも欠けている年があり、毎年の録音となったのは、以後年ごとの交代制となる1987年カラヤンからということです。

 わたしが聞いている1954年のニュー・イヤー・コンサートは、ラジオ中継を音源とするLPレコード(海賊盤的な性質のものなのでしょう)からの復刻です。
 記録された最古のニュー・イヤーとして貴重なものであるばかりでなく、音質が想像以上によいのも嬉しいところ。

 艶やかな弦楽器、愛らしい管楽器…。

 ワルツのゆっくりなテンポの部分では、2拍目が少し長くなる(かわりに1拍目が短く)というヴィーン独特のリズム感、あるいはもっと大きな単位での音楽の伸び縮み、あるいはなまめかしいポルタメント、弦の跳ね上げるようなフレージング。

 そして何よりも音楽のノリと勢い!
 クラウス=ウィーン・フィルのシュトラウス録音にはセッション録音もありますが、その点で大きな違いがあるのです。

 セッション録音にはそれならではの魅力があり、わたしもLP時代から愛聴しておりますが、このライヴ録音では指揮者と楽団員たちの生き生きとした感興が、湯気となって立ち上るよう。
 そのためアンサンブルが雑になったり、強引な音楽の運びも聞かれたりしますが、これこそ本当の姿という説得力を持っています。

 観客もヴィーン人のアイデンティティを刺激されているのでしょう、現在のような世界の名士たちの拍手よりも、もっと熱狂的です。

 しかし当時のニュー・イヤー・コンサート、現在との最も大きな違いはポルカなど短い曲5曲で、その都度アンコールが演奏されていることではないでしょうか。
 ライナーノートの山崎浩太郎氏は19世紀以前の演奏会の慣習の名残と指摘されています。

 しかし最後に「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏されるというのは当時も同じで、「ドナウ」が始まると拍手が起こり、一旦音楽を止めるというのも行われています。
 その3曲前の「春の声」でも同様の演奏し直しが行われていますが、観客のしぜんな熱狂ゆえという感じ。
 それがいつしか現在のようなお決まりのパターンとなったのでしょう。

 しかしラデツキー行進曲では、現在のような観客の手拍子はありません。
1975年,79年にはありますので、ボスコフスキーがいつの頃からか始めたようですね。

 いやぁ、久しぶりにこれを聞き、大いに楽しみました♪

 それにしてもクラウスが1954年に没し、このニュー・イヤーが最後であったことには、運命のいたずらを感じずにはいられません。

 クラウスは生前からハプスブルク家の私生児ではないかと噂されていました。
 彼はヴィーン子から絶大なる寵愛を受けていましたが、それには世界に冠たる大帝国であったかつてのオーストリアのシンボル、とみなされていた部分が大きかったのではないでしょうか。

 そんな彼の死後すぐにオーストリアは独立を得、民主国家が誕生しました。

 クラウスの役目は、まさに1954年に終わったのかも。

 この1954年のニュー・イヤーには、オーストリア帝国の“残り香”が刻み込まれていると言えるのかも知れません。

  OPUS蔵*OPK7006〜7(2枚組)
author:, category:MELUMAGA-2010-I〜, 11:40
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