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メルマガ2011.3.12 死の前年にようやくついた決心
 昨日は徐々に明らかになっていく地震・津波による被害状況のあまりの
ひどさに驚き、心を痛めるばかりでした。

 被害に遭われたお客様には、心よりお見舞い申し上げます。
 
 自然というのは時になんと惨いのでしょう…。

 関東以北のお客様は今後も余震などに充分ご注意いただきますよう。
 
 一日も早く 日常が戻ってきますように念じております。

 こんな時にメルマガもないだろう と、来週への延期も考えていたのですが、
昨晩 いつもお世話になっている東京のお客様へ被害状況をお尋ねしたところ、
大丈夫というお返事とともに「メルマガ楽しみにしています」というお言葉を
いただき、それに励まされ 予定通り発行することにいたしました。


 ●●死の前年にようやくついた決心●●

 先日 ブッシュ四重奏団のベートーヴェン*弦楽四重奏曲7曲を中心とした
アルバムが入荷。
 ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲(第12〜16番)は1曲でも聞くと、
結局全部聞きたくなってしまうもの。
 ラサール、ベルク、ジュリアード、バリリ、エマーソン、スメタナ…
 いろいろな演奏で楽しんでいるうちに メルマガに書こうと思いつき、
さらに聞き込む私。これまでにないほど集中して聞くこととなりました。

 ベートーヴェンが晩年到達した至高の世界。
 最後のピアノ・ソナタ3曲とともに、ベートーヴェンの数ある傑作の中でも
最上位に置かれるものと言っていいでしょう。
 ベートーヴェンの交響曲全曲と、どちらかだけしか無人島に持っていけないと
しても、私は躊躇なくこの弦楽四重奏曲5曲を選びます。

 これらの作品、中期の 構成のしっかりした作品に比べると、プロポーション
がとれているとはいいがたいですよね。
 楽章が多かったり、緩徐楽章がいやに長かったり、逆に極端に短い楽章が
あったり。
 ベートーヴェンは全体的な形を整えることよりも、円熟の時を迎えていた
作曲技法を思いっきりぶつけずにはいられなかったのでしょう。
 当時 健康状態が優れないことが少なくなかったようですが、斬新な
アイディアと創作意欲に溢れていたに違いない。

 初演当時、もともと第13番の終楽章であった「大フーガ」の評判が悪く、
友人などの勧めによって別の終楽章を書き直したことはよく知られている
ところ。
 現在では峻厳な威容を誇る名曲として愛されている「大フーガ」の評判が
悪かったなんて まさに隔世の感という感じですが、第12番、第14番、
第15番の 変奏曲による長大な緩徐楽章は素直に受け入れられたのでしょう
か。
 現在でも決してとっつきやすい曲とは言えませんよね。
 しかも私、実は変奏曲が苦手なほう。

 しかしこれら3曲は 変奏曲という形式が持つ、悪く言えば ある種の白々しさ
みたいなものをまったく感じさせず、それどころか安けき充溢や真摯な祈りを
感じせる 本当に感動的な名作。
 後期弦楽四重奏曲の中の白眉と言ってもいいでしょう。

 その一方でスケルツォがまた絶品!
 「スケルツォ」と指定されていないスケルツォ的な曲を含めると、全5曲に
1曲ずつ織り込まれていることになりますが、これが皆 諧謔的でありながら、
極めて洗練されており、どこか突き抜けたような感じがある。

 特に第14番の第5楽章。
 これも単にプレストと書かれているだけで、スケルツォとは指定されて
いませんが。
 弾けるような躍動感と軽やかなメロディでできた小気味のいい曲。
 トリオのメロディに 学校の始業終業のチャイムを思い出すのは私だけ
でしょうか。
 また最後には現代音楽の先取りのような斬新な響きが。
 洗練の極地であり、“解き放たれた魂の飛翔”のようなものを感じさせます。

 −などと書けば、後期弦楽四重奏曲を聞いたことのない方は、ひょっとすると
ベートーヴェンの雄渾なイメージとまったくかけ離れた曲なのか とお感じに
なるでしょうか。
 決してそんなことはありません。

 第12番、第13番は全体的に見れば力強く、快活な雰囲気が支配しています
し、第14番の第6楽章から第7楽章(終楽章)も、暗く悲劇的で雄渾な曲想
で、ベートーヴェンの通常のイメージに合致していると言えるでしょう。

 第15番も第1楽章、眠りからゆっくりと覚めるような序奏から、悲劇的な
曲想。
 また終楽章(第5楽章)の主題も三拍子・イ短調による嘆きの歌。それが
ドラマティックに盛り上がっていき、最後に速度を上げて長調に転じ、力強く
曲を閉じます。ベートーヴェンらしいヒロイックなカッコよさがある。

 ただこの第15番、大好きでありながら 同時に疑問も感じるんですよね。
 この曲の核は、先ほど触れた長大な緩徐楽章:モルト・アダージョ(第3
楽章)。
 病気回復の喜びを込めて、楽譜には「リディア旋法による。病から回復した
者の神に対する聖なる感謝の歌」と記されています。
 リディア旋法、すなわち教会旋法を使って、これこそまさしく神との対話の
ような、しみじみとした美しい曲なのですが、そのあとに来る第4楽章は
「行進曲風に」。
 これが、なんともいえない充足感に水を差すような すっとぼけた音楽。
 それに続くは まるで大げさな嘆きを戯画化したような、レチタティーヴォ
風の音楽。
 行進曲に戻るのかと思いきや わずかな休止の後、先ほど書いた悲劇的な
嘆きの歌。
 つまり終楽章に突入。ヒロイックに展開し、感動的に曲を閉じるのです。

 聴後の感動に浸りながらも あの行進曲と詠嘆の諧謔は何なんだと。
 聞けば常に感じてしまいます。

 さて。長い間 名作中の名作の中でも、完璧な変奏曲と、輝かしいスケルツォ
(的なプレスト)を持つ第14番が白眉と思っていましたが、数年前から
第16番により大きな魅力を感じるようになってきました。

 ベートーヴェンが死の前年に書いた最後の大作。
 とは言え 4楽章制に戻り、しかもコンパクト。
 この頃 ベートーヴェンはひどく健康を害し 死も覚悟したとのことです
が、それにしては苦悩を突き抜けたような、穏やかで清澄な曲調。

 とはいえ第1楽章は戸惑い・ためらいで始まり、その後も気分の定まらない
微妙な雰囲気を醸し続けながら、こだわりなくすっと終わる。

 第2楽章はこれまた精巧にできたスケルツォ風音楽(ヴィヴァーチェ)。
 スケルツォでこれほど感動させる作曲家は他にいるでしょうか!

 第3楽章はレント・アッサイ、最後の神への祈りという感じ。
 例によって変奏曲による緩徐楽章ですが、体力的な限界を表すように長大には
ならず。
 しかし第2変奏で死への恐怖が示されるようであるのは印象深いところ。

 そして終楽章。「ようやくついた決心“Der schwergefasste Entschluss”」
というタイトル付き。

 不安げな開始。それはますます高まっていく。 
 楽譜には“Muss es sein?(かくあらねばならぬのか?)”の文字。

 “Es muss sein!(かくあるべし!)”と 明るく決然とした主題。簡潔にして
堂々たる展開。

 不安を払拭し、神のもとへ召される覚悟を得た偉大な作曲家 −なんて想像を
してしまうのですが、この言葉は特に哲学的な思考を表したものというわけ
ではなく、単に家政婦への給料に関する問答という説があります。

 しかしジュリアードQの解説書には、また別の説が。

 デンプシャーという音楽愛好家が自宅で第13番の四重奏曲を演奏するために
その写譜をベートーヴェンから貸してもらうことになったのですが、貸し賃を
ベートーヴェンから要求されて(直接ではなく人を介して)彼が言った言葉が
“Muss es sein?(そうしないといけないのか?)”だったそうです。
 ベートーヴェンはこのことを面白がって、第16番第4楽章のその言葉が
附されたプレストの部分と同様の主題で「そうしなければならない(Es muss
sein)! そうだ、対価を払え!」というカノンを書いたとのこと。

 第16番第4楽章とカノンは大体同じような時期に書かれているらしく、
どちらが先であったのかは判らないそうですが、どちらにしても 謎めいた
言葉が作曲者晩年の深い思考によるものではなく、むしろ しゃれっ気であった
ということになりそう。

 しかし かなり詳細で信用に足ると思わせるこの説でも、楽章自体に
「ようやくついた決心」というタイトルを付けたことの説明はつかない気が
しますが、ひょっとするとベートーヴェンは、それらの言葉があたかも哲学的な
意味を持つようであることを面白がったのかも知れないですね。

 まぁ いくら考えても真実は判りません。

 とはいえ、このようなスゴイ曲を書いた晩年のベートーヴェンの作曲態度は、
ややもすると 孤高で非日常的であったように感じてしまいがちですが 決して
そうではなく、病気などの苦悩の中でも 日常のちょっとした関心から
インスピレイションが湧いたりしていたことが伺えるのが興味深いところ。

 「エス ムス ザイン」のカノン、ぜひとも聞いてみたいものです。
author:, category:MELUMAGA-2011, 11:38
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