RSS | ATOM | SEARCH
メルマガ2011.4.23 ツァラトゥストラはTVでかく語りき
 ●●ツァラトゥストラはTVでかく語りき●●

 NHKの「100分で名著」というシリーズ番組の「ツァラトゥストラは
かく語りき」を見ました。

 本来反社会的な超人思想が、糖衣を施した薬のように飲み込みやすく語らる
ことに不満を感じていたのですが、一方で私の愚かな間違いに気づかせてくれた
ことに大いに感謝しなければいけません。

 というのも、私は「ツァラトゥストラ」の超人思想とともに根幹的な思想で
ある「永遠回帰」が理解できないでいたのですが、この番組の優しい解説が、
根本的なところで間違っていたことに気づかせてくれたのです。

 永遠回帰とは、同じ人生が永遠に何度も繰り返されるという概念ですが、私は
ひとりの人間の人生が終わると すぐに新たな人生が始まる、しかしその人生は
永遠に全く同じものという風にイメージしていました。

 そんなことありえないではないかと。ニーチェ 何言ってんだ? と。

 そうではなく、もっともっと大きな単位の話だったのですね。
 宇宙が滅んで 太陽系がまた生まれ、人間が誕生し…という途轍もなく大きな
単位。

 なるほど、そうだったのか!と膝を打ち、なぜそれに今まで気づかなかった
のかと、自分に呆れてしまっていた私…。
 しかし「ツァラトゥストラ」では永遠回帰そのものについては具体的に
書かれていないのですから、私の誤解も仕方ないと思うのですが…。

 それと同時に、自分の人生が(現在までのところ)幸せであることを感じず
にはいられませんでした。

 ツァラトゥストラは 自らが熟成したと感じた上で、永遠回帰の思想を呼び
覚まし格闘するのですが、昏倒し 7日間も意識を失ってしまいました。

 しかし私は自分の人生がいつかまた繰り返されるとしても、それほどショック
ではない。

 ニーチェと その分身であるツァラトゥストラのような苛烈な人生、あるいは
発展途上国の貧民であるとか、戦争を経験するというような苦悩の人生で
なかったことを、喜ばなくてはならない。
 それどころか、人類史上かつてないほどの幸せを享受していると言っても
いいような世の中に生きていることを、忘れてはならない。
 改めてそう感じさせられました。

 東北の方々の苦難もいつの日か、肯定できるようになりますように…。


 ところで−

 超人思想の反社会的な部分こそ 私が最も感銘を受けたところですので、TV
でどのように説明されるのか興味深々だったのですが、やはりその部分を抜きに
カッコよく(?)説明されていました。

 まぁ当然だわな と思いつつも 怒りに似た感情が沸いていた私。

 しかしふと収まりました。

 というのも、私もそのことについてを書きたいと思いながら、今まで書け
なかったことに気づいたから。
 私のメルマガですら書けないことを TVで言えるわけがない。

 そう思うと 糖衣錠的ニーチェ論も、意外と素直に見ることができたのです。
 最近若者を中心に読まれているというニーチェ本もおそらく同じ傾向にある
のでしょう。

 いや、永遠回帰について教えてもらった者が とやかく言えないですね。

 ルー・ザロメとの写真、病床のニーチェの写真(付き添っているのは妹の
エリーザベトなのでしょう)や、晩年精神的に病んだ時に書かれた無秩序・
意味不明な書などの資料も大変興味深いものでした。

 哲学研究の永井均氏が言われるように、ニーチェはおおっぴらに語られる
べきではないような真理を探求し、示さずにはいられなかった思想家だったと
思います。

 ニーチェ自身はツァラトゥストラたらんとして、超人たらんとして、それら
にはなれませんでした。

 本が売れるように、権威者に誉めてくれるように懇願したというエピソードは
尊大なニーチェのイメージとはかけ離れている。
 超人はそんなことしないでしょう。

 一方45歳の時 トリノで、鞭打たれる馬車馬を見たニーチェは馬をかばって
抱きしめ、大声で泣いたという有名なエピソード。
 彼はその年のうちに精神を病み、その後10年ほどを精神病者として過ごし、
1900年に亡くなります。

 彼の発狂はやはり理解されない絶望が主な原因であっただろうと、私は思い
ます。
 
 ツァラトゥストラのように苛烈には生きられないことを、彼自身が証明して
しまったのではないか。

 彼は発狂に安逸を求めざるをえなかったのではないか。

 そう思います。
 
 さて、超人でなくとも、しかし末人でもなしに生きるには…。
author:, category:MELUMAGA-2011, 14:29
comments(2), -