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メルマガ2011.4.29 ピアノ界のチャップリン?
 ●●ピアノ界のチャップリン?●●

 以前ブンテで書かせていただきました方(のお姉さま)から、シューラ・
チェルカスキーのCDをたくさん譲っていただいたわけですが、その中にライヴ
録音の非売品の“海賊的な”CD−Rが含まれておりました。

 貴重なものながら さすがに販売することはできないなということで、作曲家
Sさん(久しぶりに「ブンテ」出演願いました)に1枚差し上げたのですが、
こんなメールをいただきました。

 <チェルカスキーを聴いていますが、いやびっくり。こちらの集中力まで皆
持って行かれそうな凄まじい演奏ですねえ。しかもライブでこの完璧さ。
他のを聴かず、さっきからこればかり聴いています。ヘンデルの組曲とリストの
ソナタ、こんな演奏は今まで聴いた事がありません。>

 お買いいただいたCDそっちのけで楽しみ、興奮を持ってご連絡いただいた
ご様子♪

 しかしそのCD−Rを聞いていなかった私は困惑。

 <本当にそんなにスゴイ演奏なんですか? チェルカスキーの演奏といえば
ノンシャランとした雰囲気、エンタテインメント的な演奏で、凄まじいという
言葉とはまったく逆な演奏というイメージがあったのですが…。> とお返事
しました。

 フォルテを使わず 張り詰めた緊張感の代わりに、ゆったりとしたテンポに
よる、ペダルをいっぱい踏んだ響き豊かなロマンティックな歌。
 あるいは技巧的に難しい小品を、ややたどたどしい感じで弾きながら愛嬌で
乗り切る。
 ソナタをずらりと並べるようなプログラムではなく、小品、あるいは小品を
連ねたような曲を得意とし、“アンコールが本番”などと言われたりもした
エンタテインメント性。
 まず思い浮かぶのは そんなイメージでした。 

 しかしその後、お送りしたCD−Rが1965年のライヴであることが
判明し、壮年期は全然違ったのだろうと 少し納得。

 私は晩年の演奏しか聞いたことがなく、逆にSさんは晩年の演奏をお聞きに
なっていなかった。

 そこで 若い頃の演奏を取り出し 聞いてみたのですが、確かに晩年にはない
強靭な打鍵でバリバリ弾くヴィルトゥオーゾ風なところがありました。
(1951、53年のケルン・ライヴ/ORFEO)

 しかし1963年ルガーノ・ライヴ(ERMITAGE)のストラヴィン
スキーのペトルーシュカ3楽章を聞いてビックリ。
 ギクシャクしたリズム、ヘタウマのような弾き崩し。
 真剣なのか遊んでいるのか…。ユニーク極まりない。

 1984年のセッション録音(NIMBUS)の同曲は遅いテンポでさらに
ディフォルメ! 味のカタマリ、ケッサクです。

 「不滅の巨匠たち」という本のチェルカスキーの項を見てみますと、評論家
浜田滋郎氏は、チェルカスキーは自分の演奏をひとつの型にはめてしまうことが
嫌いで、その時々の感興の表われを大切にしたいというひとつの気質(かたぎ)
を大切にしていた、と書いています。

 また「私は同じ曲でも弾くたびに違った演奏をすると批判気味に言われた
ことがある。とりわけ共演する指揮者たちは、それでは困ると たびたび私に
文句を言った。が いつも判で推したように同じことを弾いていて面白いの
だろうか?(後略)」というチェルカスキー自身の言を紹介。

 やはり基本的には、通常のヴィルトゥオーゾの範疇には収まらないような
ユニークなピアニストであったと考えていいのでしょう。
 あるいは昔のヴィルトゥオーゾはそんな感じ?

 そして晩年、皮肉にもテクニックが衰え始めた頃、そのヴェテランの味が
NINMUSやDECCAへの録音を通じて世界的に紹介されるようになり、
日本でもファンを獲得、1988年からは毎年のように来日するようになり
ました。

 先述の本で浜田氏は、ピアニスト小山実稚恵氏との対談で、彼女がチェルカ
スキーのことを「ピアノ界のチャップリン」と譬えられ、それに感心したことを
紹介しています。

 揶揄的な表現ともとれそうですが、濱田氏は、チェルカスキーの芸風と
にじみ出る人柄に対する心からの敬愛と憧れ とフォロー。

 うまい譬えなのか よくわからない気もするのですが、愛嬌のある笑顔や立ち
振る舞いとともに、聴衆を楽しませようとするサービス精神を言っているの
でしょうか。

 しかし今日一日 チェルカスキーを集中的に聞いていて、晩年の演奏にも
見逃していた大きな側面があることに気づかされました。

 というのも、曲(部分)によってはテクニシャンぶりを発揮し、またダイナ
ミズムを表現していること。
 これはエンタテインメント性のひとつの手段には違いないのですが。

 彼は若い頃に得意としていたテクニック的に難易度の高いレパートリーを
晩年も変わらず弾いていましたが、ずっとテクニシャンたらんとしていたの
ですね。
 昔のようにはいきませんが… という気はさらさらなかったのでしょう。
 確かに調子のいい時には、昔とった杵柄、立派なものです。

 “ノンシャラン”という表現は失敗でした。撤回いたします。

 彼の演奏には微笑がありますが、決して暢気ではありません。
author:, category:MELUMAGA-2011, 01:52
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