近日中にドビュッシーの前奏曲集を取り上げようとして 2週間ほど前からいくつかのCDを聞いていたのですが、先日「レコ芸」を購入して (しかし値段高くなりましたね…)、ビックリ。
「下田幸二のピアノ名曲解体新書」というコーナーで、この曲集を取り上げていたのです。
一瞬「アチャ〜 やられたぁ!」と思いましたが、考えてみれば かぶったって別に何の問題もない。
とはいえ なんとなく この曲集を取り上げる気は薄らいでいたのですが、新たにフランソワの演奏を聞いて、演奏者それぞれの個性が面白く、愉快な気持ちにさせられました。
その勢いで「百人一首」を書くべきところ そっちを一週休みにし、また “百曲一所” を書くことに。
ドビュッシー:前奏曲2巻、24曲。
抽象的、あるいは即興的とも言えるようなあいまいさ。全音音階、非機能和声。
すぐには音楽の形が捉えにくく、決して親しみやすいとはいえない。
現在 堂々と示されている詩的な表題も、実は曲の頭に掲げられているわけではなく、最後に控えめに書かれているもの。あくまで霊感の源泉を表すものなのですね。
描写音楽と勘違いすると 余計に解らなくなるかも。
「ピアノのために」やベルガマスク組曲などには親しみながらも、前奏曲集は敬遠していた若い頃の私。
まず好きになったのは第1巻でした。
中でも最も気に入ったのは、第1曲「デルフィの舞姫たち」。
デルポイのアポロン神殿でゆっくりと舞う3人の女神のギリシャ彫刻を ルーヴル美術館で見て、インスピレイションを得たと言われている曲。
メロディは充分解りやすく、ゆるやかにたゆたうアンニュイな雰囲気が素敵です。
一方 第2巻は第1巻以上に抽象的と感じていて、好きになったのは さらにのちのこと。
でも今では第2巻のほうが より好きです。
解ると なぜ難しいと思っていたのか不思議に感じるものですね。
最も好きなのは第7曲「月光のふりそそぐテラス La terrasse des audiences du clair de lune」
1912年、フランスのジャーナリスト ルネ・ピュオがインドから雑誌に寄稿した インドの宮殿建築に関する文章の中にこの語句があり、ドビュッシーはそこからインスピレイションを得たとされています。
“audiences” が何を意味するのか難しく、和訳はCDによって多少の違いがありますね。
「月光のふりそそぐテラス」は最も一般的だと思いますが、“audiences” を無視しています。
故 三浦淳氏は、インドの王侯が謁見 (audience) に使ったテラス として、「月光にぬれる謁見のテラス」という訳を与えています。直訳では「月の光の謁見のテラス」となりますが、それを詩的に意訳したわけですね。
密やかで神秘的な曲です。
冒頭のメロディはフランスの童謡「月の光に」。
サン-サーンスも「動物の謝肉祭」の「化石」で使ったもの。
ゆったりとしたテンポと弱音による微妙なメロディ。
月光差し込む宮殿のテラスにおける自然の細かな変化の心象と それによって呼び起こされる感動でしょうか。
「特にここ!」は書き表しにくいのですが、2分前くらいの、一度盛り上がったあと ふと力を抜いて静かになるところ。
にじむ和音の独特の風合い。
静かになるとはいえ 感動的な情緒を持続させており、またクレッシェンドし もうひと盛り上がりします。
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サンソン・フランソワの演奏は音像がはっきりとして メロディの意識が強く、起伏が大きいのが特徴。主観・主情が色濃いロマンティックな演奏です。
これとまったく逆なのが、決定盤として名高いアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。主情を廃した、透徹した音の世界。
確かにスゴイのですが、私としてはあまりに厳しく、重く、柄が大きすぎることが気になる部分もあります。絶対的存在になることは充分判りますが、もっと軽妙なセンスで聞きたいと思うことも。
その点、ミシェル・ベロフの新しいほう (DENON) はどちらかといえば地味ながら 軽めの音、繊細なタッチ、細部に神経が行き届いていて素敵。若い頃のEMIへの録音のとんがった演奏から脱皮した、大人のベロフを聞くことができます。