- いろとりどりの歌 第40曲「わだのはら八十島」
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2012.05.30 Wednesday
第40曲は 百人一首第十一番目
≪わだのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよあまのつりぶね≫ 参議篁 (古今集・羈旅)
小野篁(おののたかむら) は平安時代前期の官人・学者・歌人 (802-853)。官位は従三位・参議。小野岑守の子。三蹟のひとり 小野道風は篁の孫。
大学寮文章生(もんじょしょう) (高級官僚候補生という感じでしょうか) の頃から漢詩文で名をあげ、令 (律令の令) の解説書「令義の解(りょうぎのげ)」の成立にも携わった篁。そうした学識を買われ、承和五年(838) の遣唐使の派遣にあたって副使に任ぜられました。
渡航に用いるのは四隻。最も堅固な大船に正使 藤原常嗣(つねつぐ)、それに次ぐ船に副使 篁が乗船する予定。
ところが出航直前、正使の船に故障発見。
常嗣の願い出によって、正使と副使の船を交換することになったのです。
これに怒った篁。仮病を使って副使を辞したうえに 朝廷を批判する詩を作りました。
それが嵯峨上皇の逆鱗に触れ、篁は官位を剥奪、隠岐への配流(はいる) に処されてしまったのです。
古今集にあるこの歌の詞書は −隠岐の国に流されける時に舟にのりて出でたつとて京なる人のもとにつかはしける
そう この時の配流のもの。難波の津からの舟出に際し、妻か恋人へ送るために詠まれたものです。
= いくつもの島々を越えて配流の地へ行くために大海原を漕ぎ出していったと 都に残したあの人に告げてくれ、海人の釣舟よ =
出航前、難波の津に見えるは 漁夫の釣り舟。
瀬戸内海を通りぬけて、日本海を北上するはるかな船路。しかも当時の流罪に期限はありませんでした。頑固一徹、狷介な性格だった篁とはいえ、その無念の思いは想像に難くありません。
この事件によって悲劇の人 篁というイメージが生まれ、後々まで人々の心を捉えました。
「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」に彼に関する伝説的な話が出てくるほかに、異母妹との悲恋を題材とした「篁物語 (篁日記)」が作られることとなるのです。
とはいえ どれもほとんどフィクション。
実際の彼は 1〜2年ほどで赦免され 官に復し、のちに参議として公卿に列することとなりました。
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昔 小野篁の墓を見に行ったことがあります。北大路堀川南。大学時代住んでいたところのすぐ近くで驚いたものです。
それがまた不思議なことに 紫式部の墓と仲良く並んでいるのです。何の関係もないふたりがなぜ? という感じですが、鎌倉時代の公家・学者・歌人であった四辻善成(よつつじよしなり) による「源氏物語」の注釈書「河海抄(かかいしょう)」(1362年頃)に「紫式部の墓は雲林院内の白亳院(びゃくごういん) 南にあり、小野篁の墓の西」と書いてあることによるものです。
このあたりは 「寂しさに」 (良暹法師) でチラッと触れました雲林院の境内に含まれていたとみられており、また確かに古くからふたりのものと言い伝えられる墓もありました。しかし ひどく荒廃していたため、平成二年に現在のように整備されたということです。私が訪れたのは平成八年。
しかし大学時代は昭和の御世。まだ整備されていなかったわけです。
↑ ふたりの墓の入り口。ムラサキシキブが植えられています。
↓ 右奥まったところに篁 (碑銘は小野相公)、左手前に紫式部の墓 入り口の石碑といい 紫式部のほうが扱いがいい?