- いろとりどりの歌 第85曲「あらざらむ」
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2014.09.07 Sunday
今回は有名な女流歌人 和泉式部の歌を。
平安初期の活躍。生没年は不明ながら 970年代の生まれとも。父は越前守 大江雅致(まさむね)。和泉式部という呼び名は 父の官名である式部、最初の夫 橘道貞の任国 和泉から。
太皇太后昌子内親王 (冷泉天皇皇后) の宮で育ち、橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚、小式部内侍を生んだ。
やがて道貞のもとを離れて 都に戻り、冷泉院の第三皇子 為尊(ためたか) 親王の寵愛を受ける。しかし1002年、親王は二十六歳で夭折。
翌年、為尊親王の同母弟である帥宮(そちのみや) 敦道親王との恋が始まる。式部が敦道親王邸に入るまでを描いた恋物語的日記が有名な「和泉式部日記」。しかし敦道親王も1007年 二十七歳の若さで逝去。
その後、一条天皇の中宮 藤原彰子に出仕。その縁で 藤原頼道の家司 藤原保昌と結婚。1020年頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。
その後は不明のようで、その地でなくなったとも、帰京した後の1025年に 娘の小式部内侍が亡くなったとも。
家集は数種伝わり「和泉式部集」など。「和泉式部日記」も式部の自作だろうとのこと。勅撰集に二百四十五首入集。
夫が早く亡くなったりして 数奇な運命を辿ったようですが、次から次へと夫ができたところをみると、才能とともに美貌も兼ね備えていたということでしょうか。
確かに男から相当もてた 情熱的な歌人だったようで、紫式部は「紫式部日記」で和泉式部の歌の奔放さを批判しながらも、天才的なきらめきを認めているとのことです。
<黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき>(後拾遺)
<枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢>(新古今)
すごいですね…。小野小町以上の激しさ。
というか 当時の しかも宮廷で、ポルノまがいと思われはしなかったのでしょうか。
それにくらべれば、百人一首第五十六番として採られた歌は上品。
≪あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな≫ 和泉式部 (後拾遺集・恋)
詞書は、心地例ならず侍りけるころ人のもとにつかはしける
= あの世の思い出のために、もう一度あなたにお会いすることができたなら =
病床に臥すなか、彼氏に送った歌というわけです。
難波喜造氏は − ここには、病の床に臥しながら、ひたぶるに恋人を慕い、ほかのいっさいのものを焼きつくすほのおと化して、たった一度の逢う瀬を思念する情熱だけがある。いちずで、何のまじり物もない愛情がある −と手放しの評価。
そこまでを読み取ることは私には不可能。
それよりも、病の床で たくさん作った歌のなかの(しかも たくさんの男へ送ったなかの)優れた1作と言われたほうが納得いきます。
それとともに昔から思っていたことは「あらざらむこの世のほか」という言い回しの回りくどさ。
三省堂には その部分に関する興味深いことが書かれていました。
初句「あらざらむ」で切れるという説があると。
これだと「もう死んでしまいそう。あの世の思い出のために、もう一度あなたにお会いすることができたなら」というような感じになる。
三省堂は この説について、落ち着かない として採用していませんが、その後に書かれているように、このほうが奔放な歌風の歌人らしい。
前半の回りくどさにしてはひねりがないし、食い足りんなぁという私の思いはかなり解消されます。