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いろとりどりの歌 第90曲「契りおきし」

 さて 第90曲は百人一首第七十五番、
 ≪契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり≫ 藤原基俊(千載・雑)

 僧都光覚維摩会の講師の請を申しけるをたびたびもれにければ法性寺入道前太政大臣にうらみ申しけるをしめぢが原と侍りければまたその年ももれにければつかはしける

 「僧都(そうず) 光覚」は、作者 基俊の子で、興福寺の僧。
 「維摩会 (ゆいまゑ)」は、釈迦の高弟 維摩の説いた教えを記した経典 維摩経を講義する法会。毎年十月十日から十六日 (旧暦) まで、藤原氏の氏の長者の主催により、興福寺でおこなわれました。
 その講義は恒例として宮中の最勝会の講師にもなれる名誉なもの。

 「法性寺入道前太政大臣」は藤原忠通。この時の氏の長者。次回、その歌「わだの原」を紹介予定です。
 光覚は維摩会の講師を希望していましたが、何度も選に漏れていました。そこで 父の基俊が忠道に依頼したところ、忠道は「しめぢが原」と答えた。

 これは「新古今」釈教に収められた 清水観音の歌、
  <なほ頼めしめぢが原のさせも草われ世の中にあらむ限りは> のこと。

 つまり「私の目の黒いうちは 頼りにするがよい」という積極的なご返事。
 しかし期待も空しく、その翌年もやはり指名されなかったので、この歌を忠道に送って、恨みを述べたのです。
 「させもが露」は、さしも草(もぐさの原料よもぎのこと。「かくとだに」 にも出てきます)に置いた露。
 「契りおきし」の「おきし」が「おきしさせもが露」とかけられています。
 さらに「させも」は、忠道が「しめぢが原」の一語で代表させた清水観音の歌の「させも草」をよみ込むという機智、テクニックであります。
 また「露」「命」「秋」は縁語。

 = 約束いただいておりました「しめぢが原」のお言葉を、あたかも させも草に置く露に命を託すがごとく頼りにしておりましたのに、ああ、今年の秋も過ぎていくようです =

 意訳しがいがある歌ですね。

 三省堂では、− お約束くださった「しめぢが原のさせも草」のおことばを、露にすがって命をつなぐ虫のように、唯一の頼りとして、ああ、悲しいことに今年もむなしく過ぎそうです。−
 「虫」を持ち出し 分かりやすい。しかし案外あっさりしています。

 難波喜造氏は、−「われ世の中にあらむかぎりは、なほ頼め」とかたくお約束くださった、「しめぢが原」というおことばを命とも頼んで、(わが子光覚がこんどこそは維摩会の講師に選ばれることと楽しみにしておりましたが)、その望みもかなわず、願いは「しめじが原のさせも草」に置く露のようにはかなく消えて、ああ、今年の秋もむなしく過ぎ去っていくようだ。−

 両者の訳には、露に命を託すのか、露のような命なのか、という違いがありますね。

 「露を命にて」ですから、本来は「わずかなことに命を託す」意味だと思いますが、「露」と「命」は縁語ですし、「露のようにはかない命」というニュアンスを感じさせる意図もあったことでしょう。

 藤原基俊 (ふじはらのもととし) は平安時代後期の公家・歌人 (1060-1142)。右大臣 俊家の子。
 道長の曾孫にあたる名門の出身でありながら、官位には恵まれず、従五位上左衛門佐に終わった。
 藤原忠通と知り合い、忠通主催の歌合に出詠したり、判者を務めたりするように。古今集を尊重し、伝統的な詠風。源俊頼 とともに院政期歌壇の重鎮と目されるようになる。
 1138年 出家。同年 当時二十五歳の藤原俊成を入門させる。
 家集「基俊集」。金葉集初出、千載集では入集多く、勅撰入集百五首。漢詩にもすぐれた。

 息子 光覚は1153年 53歳の時、ついに念願かなって維摩会の講師を務めますが、基俊の死後10年が経っていました。
 同年に出家した源俊頼の孫 教縁は1128年に維摩会講師に選ばれ、その後 興福寺別当に上り詰めますので、おそらく才学に相当隔たりがあったのでしょう。

 難波喜造氏は この歌について、切実な親の愛情がにじみ出た歌、と評していますが、なべおさみ・なべやかん親子の不正入学事件を思い出させたりして、素直に感情移入できない。

 それよりも、忠道が言った「しめぢが原」の歌を盛り込んだ機智こそ、この歌の肝であると思います。

author:, category:いろとりどりの歌(百人一首鑑賞), 01:21
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